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【InteractiveEducation'99 Vol.7】編集工学研究所、松岡正剛氏による講演――編集工学的な観点から“Interactive Education”を考える

1999年08月26日 00時00分更新

文● 編集部 井上猛雄

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“InteractiveEducation'99”の2日目、20日午後のプログラムは、編集工学研究所所長の松岡正剛氏による講演から始まった。“ここまできている情報技術の先端”と題されたこの講演は、“学び”という原初的な意味あいを哲学的な見地から再考し、氏が研究している“編集工学”という概念に当てはめながら説明するものであった。

“むくむく”と“もやもや”を解明することがテーマ

講演の冒頭で、松岡氏は第1に学習において最も重要なことは創発性であり、どんな学習システムであれプログラムであれ、“さしかかること”が必要であると説いた。

学習する過程において、学習者は身につけたデータ以外のものを無意識のうちに発見しているかもしれない。ある事象に“さしかかる前”に“創発”され、何かが面白く思えてくる。そこにさしかかった時点で、何かが“むくむく”と頭をもたげはじめる。

松岡氏は、このように先生が学童を誘発できるようなプログラムやカリキュラムが必要になってきていると主張した。そして、その“むくむく”と“もやもや”を解明することが、氏が言うところの“Interactive Education”におけるテーマであるという。

編集工学研究所の松岡氏
編集工学研究所の松岡氏



松岡氏は“むくむく”と“もやもや”について、最近話題になっているアニメ『となりの山田君』を例に挙げて説明した。『となりの山田君』の優れた点は、いま描かれた輪郭が、まさに生成され動いているという過程が見えるところにあり、プリミティブでフラクチュアルな点にあるという。

また、空気遠近法を発明したレオナルド・ビンチの絵にも輪郭がないが、彼の絵を見て感動するのもそういった点にあるのかもしれないという。

「はっきりと輪郭線が描けないところに何か大切な真実があるのではないか?」と、誘発、創発される感覚について、松岡氏は聴衆に一考を問うた。

言い換えにより発想のトリガーを喚起させる

人は与えられた情報や体験を常に整理し再編集している。したがって、情報の並べ替え、言い換えを可能にしておかなければならないというのが松岡氏の考えである。

たとえば、“カップ”というモノを表現するにしても、100個の言い換えが可能である。“カップ”、“グラス”という物体や物質の記号だけにとらわれると表現に行き詰まってしまうが、実はその表現は多岐にわたる。言い換えによって発想のトリガーを喚起させること――そして、単なる言い換えというレトリックだけではなくて、その先に見えてくるメタファーを把握することが必要であると説く。

編集には“ツール”、“ロール”、“ルール”が必要である。しかし、これらをすべて1つの器に入れ込んでしまうと、“さしかかったとき”にわかる大事なものを見落としてしまう恐れがある。「実用的に見ることは大切なことだが、今の教育はこれに大きく傾斜しすぎているのではないのだろうか? 三身一体だったものが分裂してしまっている」と警鐘を鳴らした。そして、触発されるもの――そのトリガーは子供たちの遊びの現場にあるという。

ボーダーラインの触発ゾーンに微かに潜む“多義性”や“両義性”を工学的に取り出せないか?

また、“言い換え”と“見立てる”という話に関連する重要なエピソードとして、松岡氏は自身の体験談を交えて紹介した。

あるとき、松岡氏が街を歩いていると、歩道の反対側にみごとな踊りを踊るストリートパフォーマーがいた。ところが不思議なことに、周りの人々は彼を無視するように足早に歩き去っていく。興味をおぼえた松岡氏は、彼の踊りをじっくり見てみようと近づいたのだが、あるところ――“7メートルの境界線”で足が止まって、凍りついてしまったという。

踊りを踊っているパフォーマーは実はハンディキャップを持った人だった。彼は全身全霊で、まさに自分自身の力を振り絞りながら、その一歩一歩を踏み出そうとしていた。

そこで、彼は考えさせられてしまったという。ある地点からは見事なパフォーマンスに見えた踊りが、ある地点を境にまったく異なる事実にぶちあたるというシチュエーション。そのボーダーラインの触発ゾーンには、線はなく幅だけがあるのかもしれない。

そして、いかようにも変わるこの“多義性”、“両義性”を工学的に取り出すことはできないだろうか? と考えた。それはフラジャイルであり、弱くて大切な壊れやすいもの。逆に言えば壊れやすいものは大切なものなのだということにもなる。そういった“かすかな何か”を取り出すことが編集であるという。

学びを内包した3つの遊びとは?

学びと遊びは不可分であり、子供は遊びながら触発され何かを学びとる。子供たちの現場、すなわち遊びの中に“Interactive Education”の本質があるという観点から遊びを分類すると、“ごっこ”、“しりとり”、“宝探し”の3つに大別できるという。

“ごっこ”は実在の模倣であり、自らの役割を学ぶことである。“しりとり”は言葉の多様性や、クラスとインスタンスを知ることであり、潜んでいる筋書き、スクリプトを描くことであるという。“しりとり”のなかに潜むものを探ることで、“系”と“つながり”が見えてくる。“宝探し”は、ばらばらのモノ、断片を集めて宝を捜すことである。

子供にとって、この3つの遊びの要素は、とてもよくできたエディティングモデルとなり、学びの要素となる。松岡氏は、編集工学的な見地からこの要素を再構成し、ソフトを作ろうとしている。

子供は3才児のころから、すでに物語の原形となるモデルができあがっている。いわゆるナラティブサーキットというもの。子供は大人になっていく過程において、さまざまな体験をして、その原型をはずすようになるが、大人になってもそういった原型がたまに溢れ出てくることがある。

たとえば、その1例は夢。あとから夢を思い起こしてみると、大抵の場合はストーリーのつじつまがあわない場合が多い。頭の中でフラットに泳ぎまわっていた内なる情報の断片を想起することは、編集をしているという一連の行為にほかならない。だが、そういった知覚や知識の“ゆらぎ”の中で、動的につながっているハイパーリンク状態をうまく取り出そうとすることは非常に困難であるという。

松岡氏は、花鳥風月型という日本独自の連想法を駆使したビジュアルコンテンツを開発している
松岡氏は、花鳥風月型という日本独自の連想法を駆使したビジュアルコンテンツを開発している



遊びと学びの相同性をコンピューターとネットワークの間に解き放つ

動的につながっているハイパーリンク状態をうまく取り出すツールとして、コンピューターという道具は最も適している。そして、今日のコンピューターとネットワークの技術環境には、ネットワークツーリング環境、サーバーリフレーミング環境、クライアントオーサリング環境の3つの領域があるというのが松岡氏の分類である。これらは見掛け上はマウスによってつながっているかのように見えるが、まだ、共通した技術によって貫かれていないという。

そこで、松岡氏はこれらの環境に合わせて、それぞれに対応するようなナラティブな物語性のあるソフトを作っている。これはゲームという要素だけでは難しい。知恵ONE、知識TWOに加え+ONEが必要になってくる。遊び+ガイド、先生、友達、自我、他者などを加えなければならない。学習理論にはストレンジャーなどの他者を取り込むシステムが必要になってくる。

最後に松岡氏は、“先生”とは何か? という問題に対して、“先生はメディアである”という“先生メディア説”を提唱した。「先生はコーディネーターであり、コーチであり、キャナリデーター(運河をつくる人)である。先生自身はロール、ツール、ルールをすでに持っている。したがって、新しく現われるメディアに驚く必要もない。相互に揺り動かせるような――さらに言えば、先生と子供の持っているメディア性をつなぐことを考えなければならない」と、会場にいる学校の先生たちを鼓舞して、講演を終えた。

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